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【真田丸】外伝・北条氏政、偉大なる父を持つがゆえ

北条氏政

北条氏政はなぜ滅びの道を選んだのか?

いよいよ真田丸では、北条早雲から数えて5代。関東の雄後北条家が崩壊する場面へ突入しました。

飯へ汁を二度かけすることが、案配が分からず、将来、北条家を潰すことになるだろうと父氏康から予測されていたとされる逸話も、何度なく、真田丸では再現されました。

そういったエピソードもある中、北条五代で最大の勢力となったのが北条氏政の代でした。

しかしながら、滅びる原因となった判断から、暗愚の将として語られることの多い北条氏政。

真田丸では、暗愚さも狡猾さも含め高嶋政伸が、快演しています。

そこで偉大なる父を先代に持つ難しさを、北条氏政を通じてみていきます。

北条のみならず甲相駿三国同盟すべて滅んだという事実

北条氏政の父は、3代目当主である北条氏康。

名君の誉れ高きことでも著明であり、戦上手でもあり、上杉謙信、武田信玄という猛将たちとも五分に渡り合った猛将でした。

劣勢であった山内・扇谷上杉との河越夜戦も、8万対1万という厳しい状況も、相手の気を緩ませる手紙を送り、大逆転勝利を収めるなど名将の名を欲しいままにしておりました。

西は今川、東は上杉、里見、佐竹といった列強に囲まれた中、ときには戦で、ときには政治で、領土を拡大していく道筋をつけました。

1554年(天文23年)には、今川家の重臣である太原雪斎の尽力もあり、西側の憂いであった今川・武田との同盟を結ぶという甲相駿三国同盟を締結するという政治的な優れた判断も秀逸でした。

この三国同盟も、武田信玄、今川義元、北条氏康という稀代の名将だからこそ成立したとも言えるものでした。

その後、代替わりした三家は、武田は1582年に、今川はさらに早く1569年に、北条は1590年に戦国大名としての命運は尽きることとなりました。

あまりにも偉大な父を持つと、反動が大きいということは言うまでもありません。

とくに武田信玄と今川義元は、天下取りのため、かなりの負担が家臣団、領民に掛かっていたことも、お家崩壊の一因であるという見方もあります。

そういった面では、治政も優れていた北条家は、崩壊の要因は小さかったものの、逆に、関東の雄として盤石過ぎるまでの基盤を築き上げたことが、豊臣秀吉という天下人を侮るという失策を招いたことは否めません。

父氏康を乗り越えたいという気持ちが強すぎたことも一因であったのではないでしょうか。

まとめ

もし、織田信長が横死していなかったら、織田軍の猛将柴田勝家によって、上杉景勝は滅ぼされていたかもしれません。

ところが、本能寺の変が起こり、柴田勝家が攻め込んでこなかったために一命を取り留め、上杉征伐も領地替えの上、減封も乗り越え大名として存続しました。

逆に、大きな危機はなかったものの、名胡桃事件を発端に一気に崩壊してしまった大大名としての北条家。

北条家としては、小さいながらも大名として存続できたものの、1万石あまりの小大名。

信濃一の石高13万石までのし上がった真田家とは好対照の結果となりました。

なぜ?北条氏政が、豊臣秀吉に恭順しなかったのは、今となっては分からないことの方が多いでしょう。

真田家、真田丸という視点から言えば、真田安房守昌幸、伊豆守信之、左衛門佐信繁親子による生き残り策に巻き込まれ、判断を見誤ったという見解になるのでしょう。

最後は武人として立派な最期を遂げた北条氏政。

平岳大が演じた武田四郎勝頼の末期も切ないものがありました。

実生活でも偉大なる父高島忠夫をもつ、高嶋政伸が、真田丸でどう北条氏政の最後を演じきるのか?

本放送を待ちましょう。

最後までお読みいただきましてありがとうございます。

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