カープ新井貴浩、史上47人目の2000本安打達成
平成28年4月26日、神宮球場で行われた東京ヤクルト対広島東洋カープ3回戦で、カープ新井貴浩が、プロ18年目にして、2000本安打を達成しました。
史上47人目。
カープでの達成は、山本浩二、衣笠祥雄、野村謙二郎、前田智徳に続く5人目の偉業達成者となりました。
その新井貴浩も、本塁打王、打点王獲得するなど、日本代表でも4番を務めた経験もある打者であります。
誰もがここまでやるとは思わなかったでしょう。
1998年の広島ドラフト6位。
この年は松坂大輔、上原浩治、新垣渚、福留孝介らが注目された年。
相当な駒大マニアでないもないかぎり、新井貴浩の存在をよくよく知ってはいなかったでしょう。
そういった存在からの2000本安打。
その新井貴浩を横で見てきた自分なりの解説を加えます。
4番は作れないという常識を覆す
名将野村克也曰く、エースと四番は作れない。
多くの場合、アマチュア時代から抜きに出た選手が、プロ入り後、エースまたは4番になっているのは事実です。
ダルビッシュしかり、田中将大しかり。
その新井貴浩、広島工業から駒澤大学へ進学。
大学通算2本。2本です。
たしかに戦国東都。レベルの高い投手が多い中でホームランを打つのは容易ではないのは事実。
しかし、2本ではプロで勝ち抜くだけの長打力というのは、説得力が乏しいでしょう。
指導された太田誠元駒大監督によれば、進路相談したときに、どうしてもプロへ行きたいと直訴。
そこで太田監督が、OBである大下広島ヘッドコーチに相談し、プロ入りの道を作ってもらったとのエピソードも。
同僚であった西山秀二捕手は、コネ入団と冗談で言われるほどのレベルだったとか。
とは言うものの、新井貴浩を擁護することになりますが、けっこうコネ入団というか、あれ?なんでこのレベルの選手がという選手はたしかにいました。
(いまは確認し切れてませんが)
一つは、二軍の試合を成立させるためには、ケガ、病気などの不測の事態もあり、一定数の人数が必要ですから、そのために採用された選手たちです。
当然ながら、一軍の試合に出ることもなく去る訳ですが、新井貴浩は、そのレベルから這い上がった訳です。
そこには練習、そして試合で積み上げた配球を読む能力の向上。
鋭いバットスイングを作り上げられたことがあったと言えます。
守備の粗さを補った打力とキャラ
新井貴浩のエラー。
何度見たことか。
毎試合見ていた訳ではありませんが、
やるぞ!と思われる場面でやるだけなら、まだしも
ここでやるか!という場面でもエラーを出しました。
そういった守備の粗さに目をつぶっても、成長させたいと思わせたキャラクターだったのが新井貴浩と言えるでしょう。
カープ名物の猛練習に耐え抜けた。
これが一番の要因とも言えます。
身体が丈夫だったからとも言い換えられますが、たいがいの場合、きつい練習についていけずドロップアウトするか、はたまた遊びに逃げるかを、逃げず耐えきったことが、いまの新井貴浩の礎となっているのでしょう。
猛練習を否定する人も多いですが、唯、効果として、猛練習をすることで、脱力感を得られることが挙げられます。
かつてカープのコーチを務め山本浩二、衣笠祥雄らを鍛え抜いた広岡達朗も述べているところですが、猛練習をすることで、ムダな力が抜けると。
それをじっさいやりきり、力の抜けたムダのないフォームに繋がったと言えるでしょう。
FA移籍そしてカープへ戻る茨の道も
育成してもらった広島から阪神へFA移籍。
これで裏切り者扱いとなった新井貴浩。
そして阪神で活躍の場を失い、再度、広島へ出戻りすることに。
茨の道をあえて選んだことで、精神的成長もあったのでしょう。
阪神でくすぶっていた力が復活。
今回の2000本安打に繋がりました。
新井貴浩から学ぶべきこと
このサイトでお伝えしている大田泰示、岡本和真、平沢大河は、みなドライチ。
素質の塊。
他方、打てなければ即リストラという位置を毎シーズン味わいながら成長していった新井貴浩。
グランドに立てば、順位など関係ないということの証左でもあります。
危機感を持ち、希望を持って戦い続ける。
これがあれば岡本和真にせよ、平沢大河にせよ、持っているものが違いますから、勝ち抜けるはずです。
それには身体のケア含め、勝ち抜くための術をマスターする必要もありますが、それはまた改めて。
プロで勝ち抜くために必要なことをやった代表が新井貴浩です。
最後になりましたが、駒澤大学出身新井貴浩の偉業、本当におめでとうございました。
駒大先輩の中日森繁和ヘッドコーチのコメント
「良かったな。花ぐらい贈ってやるよ」
お後がよろしいようで。